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2012.02.06

カントリー牧場廃業へ ウオッカなる物語を生んだ奇跡

ウオッカやタニノギムレットなど4頭の日本ダービー馬を生産したカントリー牧場が廃業、およそ半世紀の歴史に幕を閉じる。牧場の谷水雄三オーナーが健康を害し、経営を断念することになったと伝えられている。社台グループの寡占化で競馬界に多様性が失われているとの懸念が相次ぐなかで、メジロ牧場に続いて名門オーナーブリーダーが姿を消すことはあまりに惜しい。カントリー牧場は1963年、ゴルフ場を営んでいた先代の谷水信夫が創業し、1968年には生産馬マーチスが皐月賞、タニノハローモアがダービーを制覇。1970年にはタニノムーティエが皐月賞、ダービーのクラシック二冠を達成した。そして1973年、天皇賞秋、有馬記念をタニノチカラが勝ち、日高を代表する生産者としての地位を不動のものにしたのだった。

なぜ創業からわずかな期間で八大競走を勝てる馬を何頭も送り出せたのか。その秘訣は「谷水式ハードトレーニング」と呼ばれる厳しい調教にあった。「馬は鍛えてこそ強くなる」、ひとりの馬主に過ぎなかった谷水信夫は自らの信念を実践するため、牧場を開いて鍛錬に耐える馬をつくろうと考えた。きつい負荷のためデビュー前に故障しても、決して手を緩めることはしなかった。その信念の塊のような生産馬を託されたのが、開業まもない戸山為夫調教師だった。戸山は育成方針を巡って何度もオーナーと衝突しながらも、「人と同じことをやっていたら、人並みだ。いつまでたっても抜け出ることはできない」という人生観に共鳴していた。

「アベベのような天才はザラにはいない。そのアベベにしても故国では走りに走ってあそこまでなった。円谷は練習に練習を重ねて、銅メダルを獲得した。 ここにいる馬は、アベベではないかもしれないが、円谷ぐらいの才能はもっている。 鍛えれば必ず勝てる」/谷水さんは馬のことはそれほど知らない。しかし、ゴルフもやるし陸上競技もやっていたから、自身のスポーツ体験を競馬に敷衍して言うのが常であった。その考えは私も同じであった。 (戸山為夫 『鍛えて最強馬をつくる』 より)

当時、調教は15分や20分で切り上げるのが常識だったが、戸山が「せめて一時間は練習する」と告げると、谷水は他の厩舎にいた馬を新人トレーナーに預けたという。牧場の一期生の中にはタニノハローモアがいた。怪物タケシバオーらを尻目にタニノハローモアは堂々とダービーを逃げきり、厩舎を開設して4年目の戸山に最高の栄誉を贈った。「谷水式」の成功は戸山の原体験となり、 後にインターバルトレーニングと坂路を用いる「戸山式」を生み出し、その思想は今に受け継がれている。カントリー牧場がなければ、日本競馬のレベルアップは大きく遅れていたかもしれない。もちろん、坂路の申し子の異名を取るミホノブルボンもいなかったはずだ。

馬のプロフェッショナルでなかった谷水信夫だからこそ成し得た破天荒な挑戦。しかし、その情熱の人は絶頂期の最中にあった1971年、交通事故で命を落とす。牧場経営は息子の谷水雄三に委ねられた。二代目は父親と違って経済性を重視するビジネスマンだった。効率的に利益をあげようと拡張路線に走り、生産馬の数を増やした。ところが、成績は急下降していく。頭数を増やしたことで地力が衰え、トレーニングに耐えられない弱い馬ばかり生まれたからだった。戸山はカントリー牧場と手を切ることも考えたが、先代への恩義から「馬の数を増やしては駄目だ」と粘り強く説得を続けた。

雄三さんは間もなく気がついた。そして徐々に馬を減らした結果、牧場の地力も馬の成績も回復していった。/ 日の出の勢いのタニノハローモア、マーチスから、落日のタニノチカラまで四年である。牧場が衰え、馬がへたばるのに四年かかったとすれば、回復するにも最低それくらいはかかる。/いったん衰えたら、長い低迷期を覚悟しなければならない。カントリー牧場は最近やっと持ち直してきたが、土というのは最新の注意が必要である。 (「鍛えて最強馬をつくる」より)

少数精鋭主義への転換。谷水雄三は40頭以上いた繁殖を15頭まで減らし、牧草地の土壌改良を行うことにした。また、頭数が減って種付け料の単価をあげられたことで、質の高い配合相手を選ぶことができた。それでも一度、狂った歯車を戻すのは容易ではない。1992年に小島貞博で新潟記念を勝ったタニノボレロなど、重賞には手が届いてもGⅠを勝てるような馬を生産することは叶わなかった。

低迷の原因となった拡張路線だが、復活の礎材とも言うべき 至宝をもたらしもした。アメリカから輸入したシーバード産駒の牝馬、タニノシーバーである。父シーバードは英ダービーや凱旋門賞を制した歴史的名馬であり、種牡馬としてもアレフランス(仏三冠)、リトルカレント(米二冠)などを輩出している。仔出しの良かったタニノシーバードは1977年から1995年までに13頭を生んだ。重賞2勝のタニノスイセイをはじめ、どれも産駒は走って牧場経営を支えた。それらの1頭が準オープンまで出世した牝馬、タニノクリスタルだ。谷水は牧場に帰ってきた同馬に期待のブライアンズタイムを種付けする。 そして、タニノギムレットが生まれた。タニノムーティエ以来、32年の雌伏を経てダービーの栄光をつかんだのだった。

物語はそこで終わらない。戸山の弟子である森秀行が厩舎を開いた際、抽選馬用の馬房を割り当てられたため、谷水は開業祝いにとJRAから抽選馬を購入することにした。森は余っていた牝馬からシラオキに遡るルションの仔をチョイスした。タニノシスターと名付けられ桜花賞に出走。谷水は繁殖にあげ、種牡馬となったタニノギムレットと交配した。ウオッカ誕生である。陣営は桜花賞を勝てばダービーに行くと明言していたが、ダイワスカーレットに惜敗。谷水は逡巡したものの、最終的に初志貫徹してダービーに向かうことにする。オークスへの登録はせず、ウオッカは64年ぶりに牝馬としてダービー馬となる偉業を果たした。こうした決断はカントリー牧場のDNAと言えるチャレンジスピリッツが為させた業なのは間違いないが、それでもオーナーブリーダーという環境になければダービー挑戦は難しかったと谷水は回顧している。

「いずれウオッカが繁殖で牧場に帰ってきますが、オークス馬の勲章がなくても生まれた仔はわたしが使うわけです。仮にウオッカの仔をせりに出したり売るとなると、勲章が大きいわけですけどね。何年かは名前を覚えてもらっていても、5年6年後のこどもになると、せり名簿の勲章で値段がつきますから」(優駿 2007/7)

谷水信夫が創り、戸山為夫らが支え、谷水雄三が守ったカントリー牧場。彼らに影響を受けた森秀行、松田国英、角居勝彦たちが関わってタニノギムレット、ウオッカに結実した。どこかで一つ、かけるボタンが違えていれば日本の競馬史は全く別物に書き変わっていたはずだ。今の生産界、中小のオーナーブリーダーには冬の時代である。後継者がいないという名門牧場の閉鎖も静かに受け入れるべきなのだろう。ただ、幾重の偶然とホースマンの思いが重なりあって現前した競馬シーンを反芻し、その有り難さを噛み締めると、 いかにカントリー牧場という存在が奇跡的であったか、天を仰がざるを得ないのだ。願わくばウオッカの物語が新たに紡がれる糸に導かれ、再び私たちの心を揺さぶらんことを。

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コメント

1月30日の記事がでたところでこのニュースですか・・・

「心を揺さぶる物語」は果たして一口馬主馬からも出るんでしょうかね?

投稿: | 2012.02.10 15:21

>ななしさま
どうでしょうか。出るといいですね。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2012.02.13 02:49

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