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2012.01.17

書評「消えた天才騎手」 馬事文化賞に相応しい力作

2011年度、JRAは馬事文化賞に 「消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡」 を記した島田明宏氏を選んだ。前田長吉は太平洋戦争中の1942年にデビューし、翌年、牝馬クリフジを操って日本ダービーを制した伝説の騎手だ。当時、戦火が激しさを増すなか競馬は開催中止となり、前田も1944年秋に召集されて満州へと出征。二度と故郷の地を踏むことなく、23歳の若さで生涯を終えた。ジョッキーとして活躍した期間は正味2年しかない。残された資料は少なく、何処でどう最期を迎えたのかさえ正確には分からずにいた。前田に関心を持って消息を訪ね歩いた大川慶次郎も、遺族にすら行き着かなかったという。ところが2006年、厚生労働省による戦没者遺骨の収集事業で、前田がシベリアに抑留されて亡くなっていたことが判明する。遺骨は八戸の生家に暮らす親族のもとへ返還されることになった。本書は前田の遺族やわずかに現存する足跡を丹念に辿り、謎に包まれていた最年少ダービージョッキーの全身像を明らかにしたノンフィクションである。

競馬は戦争と切っても切れない関係にある。軍需資源であった「馬匹」の改良は兵器の性能向上と同じく、富国強兵をめざす国家に不可欠なものであった。優れた種馬と牝馬を選定し、さらに優秀な仔を誕生させる。そのためには競馬を振興することが最善の道であり、財源を確保するには馬券を発売するのが効率的であるとされたのだった。青森の農家に生まれた前田がどう人生を選択して上京し、見習い騎手の身でクリフジの手綱を取るに至ったか、本書は時を追って紐解いていく。前田が所属したのは名門・尾形藤吉厩舎。「大尾形」と称され、通算1670勝をあげた日本競馬の礎を築いた調教師だ。本来ならクリフジの主戦騎手だったかもしれない厩舎の兄弟子たちは次々と戦地へ赴いていった。そのなかには戦後、復員してトップジョキーとなった保田隆芳もいた。大卒の初任給が60円だった時節に4万円の高値で落札されたクリフジが回ってきたのは、前田の新人離れした技術もさることながら、戦争による騎手不足も背景にあったのだ。

本書を読み進めると前田の数奇な運命に引き込まれていくが、決して個人的なヒストリーをなぞっているだけではないことに気づく。国民が悲惨な戦いの渦に巻き込まれ日本競馬が消滅することさえ危ぶまれた時代に、読者を向き合わせてくれるのだ。一度、国家の非常事態が起きれば、競馬は真っ先に立ち行かなくなる産業の一つに違いない。多くの時間と労力を投じなければ、何千頭ものサラブレッドを生産、育成し、競馬場で競わせることはできない。去年の東日本大震災で私たちはその一端を垣間見たはずだ。だからこそ、膨大なリソースを費やして生み出された1頭の最強馬は芸術品であり、競馬は文化なのだと断言できる。そして、戦中、戦後と競馬を守り続けた先人の努力がなければ、今の繁栄はなかったことは言うまでもない。言うまでもないが、ともすれば忘れがちな事実を、改めて想起させるのが本書が高く評価された所以でないか。いかに現在の中央競馬が恵まれた環境にあるのか、若い騎手を始めとする関係者にも読んでもらいたい。折しも今年は近代競馬150周年にあたり、大掛かりなプロモーションが展開されている。歴史が個人史の重なりであるならば、さしずめ競馬史はホースマンの生き様が輻輳した産物である。前田長吉という欠けていた大きなピースを埋め、あわせて苦難の競馬史を描ききった本書は馬事文化賞の名に相応しい。

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コメント

個人的には馬事文化賞なんて本当に
素人とかを競馬に惹き込む事に貢献した
「ダビスタ」とか「マキバオー」とかを
受賞させてない時点でタカが知れてますからね

今回の受賞作がわるいとは言わないけど
昨年がドラマとして不出来だった「チャンス」が
受賞してるところに
顕彰馬でエルコンドルパサーいれてない連中と同じで
選考委員の見識の方を疑ってるんですけどねぇ

だから馬事文化賞自体には大して価値ないでしょ
「消えた天才騎手」自身は良くても

投稿: チキン馬券師 | 2012.01.18 13:26

チキンさんの仰る事もよく分かります。
幾つかの素晴らしい競馬漫画は何故受賞してないのか?

基本的にその年度に出版・上演されたものが選ばれている事で、複数年に渡って連載されて人気を得た漫画、
何作もリリースされているゲームは候補から除外されている?
まあ、単純に選考委員が年配の方だからかもしれません(将来的にウマドンナを作らせた方等が競馬会内で偉くなれば、漫画やゲームの受賞可能性はありそうですね)。

個人的には馬事文化賞は、普段日の当たらない地味な研究や著作にこそあげて欲しい(日本の名工的スタンス)と思っているので、現状でも良いとは思います。
ダビスタやマキバオーの素晴らしさは、若いファンなら殆ど知っていますからね。

消えた天才騎手は発売時に購読しており、これは受賞して当たり前の力作です。もし、未読であれば是非一読をお勧めします。

投稿: とおりすがり馬きち | 2012.01.19 03:10

>チキン馬券師さま
馬事文化賞の意義はともあれ、「消えた天才騎手」は地道に取材を重ねて陽の当たらない歴史を解き明かしたものなので、ぜひ読んでみてください。

>とおりすがり馬きちさま
ゲームや漫画はサブカルチャーで、文芸はハイカルチャーだという昔ながらの先入観が強いのかもしれませんね。そのうちダビスタは受賞しそうですけれど、じゃあウイポや他の馬ゲーはどうするのかとか、難しい面はありそうです。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2012.01.20 11:03

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