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2009.12.31

ポストモダン? 競馬文化は”動物的”に読み解けるか

前回の「ファンは偉い?偉くない? "競馬見るもの語る者"の現在」という実験的なエントリー。その趣旨はtoroneiさんとYamachanさんのやり取りに潜む、競馬の物語を紡ぐものは誰か、という無意識の考えの相違を浮き上がらせること。さらに、その違いがモダンとポストモダンにおける消費行動の移り変わりに影響されたものか、探ってみたいという企図だった(ポストモダンとは1970年代以降、先進各国で生じた社会的変化である)。私なりに論理の整合性は図ったつもりだったが、二重の論点が混在していたこともあって、上手く伝えられなかった点は反省したい。そのため、スタート地点に立ち戻り、競馬文化においてもポストモダン的な消費行動は見出せるのか、その要素の候補となる可能性のあるものは何か、基本的なキーワードを再確認してから、範囲を限定して考えてみよう。

そもそも、ポストモダンを「物語消費」「大きな物語/小さな物語」「データベース消費」といった概念を駆使してサブカルチャーから読み解く手法は、90年代、評論家の大塚英志から始まって、アカデミズム色の強かった東浩紀らが展開させていったものだ。ポストモダン化の最大の特徴は「大きな物語の衰退」であるとされる。思想的には大きな物語とは構造主義が批判した「歴史の進歩」「主体的な人間」といった万人に通用する普遍的な言葉(価値観)のこと。近代では人々は宗教、規範、伝統、イデオロギーを共有していると信じていた。卑近な例なら、偏差値の高い大学に合格し、一流企業に入社すれば幸せな人生なのだという高度経済成長期の価値観も、大きな物語だと言えば想像がつきやすいか。人々をまとめあげるためのシステムとして、大きな物語は機能していた。しかし、民主主義や情報社会の発展、相対主義の徹底、個人の自己決定権を重んじる現代にあって、大きな物語は衰えていく。東らはオタク系カルチャーこそポストモダンが尖鋭的に顕れていると着目し、オタクの経験を通して現代に迫ろうとしたわけだ。

ポストモダンにおいて、人間は”動物化”すると言う。動物化は哲学者、アレクサンドル・コジェーヴの用語を東が援用したもの。ごくごく簡単に言えば、快楽を享受する方法がアディクションに近いものになっているということだ。動物は腹が減ったからモノを食べる「欲求」しかないが、人間は美人と高級レストランで食べたいとか、他人が口に入らないものを食べたいとか終りない「欲望」を持つ。欲求は他者を必要としないが、欲望は他者を必要とする。戦後、コジェーヴはアメリカの消費社会を指して、動物化していると指摘した。そこには欲求しかなく、人間的な煩雑なコミニュケーションは退けられるようになり、個々人が簡単に欲求を満たせる仕組みが促進されていく。 24時間、コンビニに行けば欲しいものが揃うし、ほとんど言葉を交わさなくてもファストフードでは食事が取れる。性的な欲求を満たすためには、電話一本で女性が自宅までデリバリーされるではないか。そこにはこれまで自明とされてきた「他者」との関係性も稀釈されてしまうのだ。

では、話を競馬に戻そう。競馬文化において、大きな物語は凋落したのか、ファンの動物化は進んでいるのか? この2問が競馬のポストモダンを語る上で土台となろう。そして、大きな物語、動物化が何を指し示すのかから考えねばならない。なぜなら、こうした議論は競馬文化をテーマにして行われてきた形跡がないからだ。これに対しては、競馬文化をポストモダンと結び合わせることへの否定的な意見ももらった。無論、考察を進めても失敗に終わる可能性は少なくない。競馬ファンは比較的、年齢層が高く、ポストモダンの価値観に染まっていない人々が多数派だろうし、競走馬に物語性を見出すことは変わらぬ本質ではないかという懐疑も最もだ。だが、将来に渡って競馬文化だけが例外的な存在ではありえず、競馬に限らずプレイヤーに物語性を見出すスポーツ全般において、ファンの消費行動をポストモダン的に語れるかという課題は、一瞥もくれず打ち捨てる話でもないと考える。

まずは入り口となる仮説を立てる。競馬には大きな物語が存在していた、とする。近代、人々は意識に映る表層の小さな世界を通して、その深層にある、世界を規定する大きな物語を読み込んでいた。多くのファンが共有する大きな物語をつくるのは、一方通行で情報をばら撒くことができるマスコミや文化人の役割だった。今も「競馬は人生の比喩である」とする寺山修司的な競馬観は大きな力を持っているが、「馬生に人生を重ねるのが正しい楽しみ方である」というのはファンの意識を支配するシステム=大きな物語とは言えないだろうか。そこにはクラシック三冠に挑むことが”正しい”のであり、エリートを打ち破る地方馬に自分の姿を重ねることが”正しい”のだと万人に共有されていなかったか。ハイセイコーブームから十数万人の「中野コール」、有馬記念の「オグリコール」へと至る折々の熱狂は、人々を束ねる大きな物語の存在を思わせてならないのだ。その後、大きな物語は力を失ったか?

今回は深く踏み込むことは控えるが、三冠至上主義の崩壊を一つの例としてあげる。ファンや競馬界の期待を受けて、ミホノブルボンのようなスプリンターが遮二無二に菊花賞へ向かったのが近代ならば、バブルガムフェローが3歳で天皇賞秋を制したのは現代への象徴的なターニングポイントと言えるかもしれない。アドバンスモアのような玉砕的なテレビ馬がダービーの名物となるシーンもなくなった。路線の多様化やフルゲート削減といった主催者側のギミックの変化は、大きな物語の衰退と軌を一にしているようにも見える。では、動物化はどうだろう。直接的な消費行為、馬券の買い方には現れていないか。単勝、枠連といった低配当でも確実に狙い撃ちする馬券術は少数派になり、馬連から馬単、今や3連単が売上の主流となった。3連単は多い買い目で網を張って、高配当を引っ掛ける馬券だ。万馬券を的中させたい欲求は手近に叶うものとなったが、その分、ヒモは考えて絞らず、広く流しておかねばならなくなった。行き着いた先は今年、発売されたクイックピック。軸馬以外はコンピューターに任せてしまう思考なき動物的な馬券だ。

以上は大きな物語、動物化を考えるための作業仮説であり、根本的に間違っていることもあろう。思想の専門家から見れば、見当はずれの愚行でしかないのかもしれない。しかし、それでも構わないと思っている。私が望むのは拙エントリーが小さな道具となって新たな競馬の見方、批評がネットに現出されることにある。競馬を趣味とし、それをネタにブログでモノを書くのは、他者と関わり合いを持つことであり、私自身が何かを得たい、成長したいと思っているからだ。そうでなければ何を好んで貴重な余暇を割いて、一銭にもならないブログを続ける価値があるだろう。今回のテーマに関して言えば、現代の動物化を認容しつつも、動物的ではない反応やコミュニケーションを探し、また環境管理型社会での生き方のヒントを欲したい気持ちにもつながる。東は、固有名がコミニュケーションのなかで、様々な誤解に晒されることで幾度も訂正されることを「誤配可能性」というタームで論じている。

手紙は必ずしもつねに宛先に届くわけではない。そしてそれが手紙の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、また届くときも、<届かないことがありうるということ>が手紙をある内的な漂流で悩ませている/「僕は古代の使者、メッセンジャー・ボーイに似ている。僕はある知らせを彼らに伝えるために走る、それは秘密のままでなければならない知らせだ。そして僕はいつも転んでいる」郵便配達人が転べば言うまでもなく、行方不明の郵便物が生じる。(東浩紀/存在論的、郵便的)

あらゆるコミニュケーションに宿る誤配可能性と配達の不確実さ。こうして拙い私のエントリーがあなたの目に入ったのも、一種の誤配と言えるかもしれない。「こうであったかもしれない」「こうでなかったかもしれない」、そんな誤配から生まれる偶然に期待しながら、来年も読者の方々とやり取りを楽しめたらと願っている。これにて何度も転び続けた馬券日記オケラセラのゼロ年代の更新は最後となる。みなさま、良いお年を!

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コメント

そもそも「競馬ファン」って何なんでしょう?

走ってるのが馬でなくても良いけど、
ギャンブルとしての競馬が好きで馬券を買う人?

馬券は買わないけど、何かしらの思いをもって競馬を見ている人?

そのへんを整理しないと駄目なんじゃ?
たとえば「動物化」。

「昔から「ギャンブル」として「のみ」競馬をしてた人たちは、馬を「他者」とは見ず、自己の「欲求」のみを満たし「動物化」してた」

ってことで、ポストモダンも何も「競馬」ってものが内包する要因による動物化ってことになりませんか?

たとえばギャンブルとしての競馬に勝つため、血統を研究し、過去のレース傾向、騎手を考察し、馬券を購入する。
普通に行われることです。
しかし彼らににとっては、その「馬」は、必ずしもその「馬」でなくても良いはずです。「馬」の個性・背景への思い入れは予想を高める邪魔でしかないからです。回ってきて結果として1着になる番号でいいのです(実際に馬番しか覚えてない人を何人も知っています)。

たとえばサイレンススズカの名前は知らなくても、金をドブに捨てたある馬は、忌々しい記憶として(あるいは素晴らしい思い出として)彼らに残っているかも知れません。

あーあいつがあそこで死ななきゃ○万になったはずなのに。
あいつがあそこで死んでくれたおかげで○万儲かったよ。消えるかもとは思ってたんだけどね。

この人たちも「競馬ファン」じゃ?
少なくとも競馬界に金銭的に貢献する額としては相当な力となっていると思いますが・・・

有馬記念で馬柱も見ずに誕生日馬券を頼んで購入する人たちは昔からいたと思います。
クイックピックよりはマシかもしれませんが、むしろもっと馬を他者としていないでしょう。

めちゃくちゃな文な上に長々と申し訳ないっす。
邪魔だとお思いになったら消しちゃってください。

投稿: | 2010.01.03 08:39

競馬の楽しみ方は古くから色々あると思いますが、代表的なものの中に①金儲け、配当を求めて、つまりは「馬券で」楽しむということと、②スポーツとして、或いは血統の連続性を、ざくっと言えば「見て」楽しむということがあると思います。他にも色々ありますし、①だけ、②だけ、①も②も両方、など色んなバリエーションがあると思います。

おそらく本エントリーの趣旨は、①=ポストモダン、②=近代、と言う風にも読めますが、おそらく①②双方における「ポストモダン化→動物化」ということだと思います。

仮に前者だとすれば、①②は古くから共存してきたものであって、今①派が急増しているとは思えない(これだけ売り上げが減っているわけですし)ので、うなずけません。後者だとすれば、①はあくまでも、昔も今も効率的な金儲けが目的であって、それが配当の低い単勝か高い三連単か、ということは相対的な問題であって質的に異なるものではないと思います。昔三連単があれば買われていたでしょうし、今でも単勝派の人もいます。ポストモダン化が進んでいるようには思えません。②については、みなの楽しみ方、競馬の見方が動物化(=人それぞれ化)しているというより、競馬そのものが世界に開かれたり、或いは路線が多層化したりと複雑になる中で、一つの物語では語れなくなっているため、ファンも(本当は単純なストーリーをもとめている人であっても)色んな見方をせざるをえなくなっているのではないでしょうか。

論旨が可也ぶれぶれですみません。

投稿: bowie | 2010.01.03 16:38

>名無しさま
コメントありがとうございます。
もともと賭博行為自体が動物的な行為であって、大衆社会が動物化したからといって、そうしたファンの消費行動には変化は見られないのではないかというご意見と、承ります。確かに寺山的に物語性を求めていたファンと、おっしゃるようなファンとは線を引いたほうが、議論が混乱しないのかもしれませんね。というか、70年代、80年代に競馬を始めた人たちは、ポストモダン世代ではないでしょうし。もっと新世代のファン動向から探るべきなのだと思います。そうすると、どんな視点を持つべきかが問題になってきますよね。

>bowieさま
鋭い分析、ありがとうございます。個人的には前者ではなかろうと推論します。例えば①ですが、馬券で金を儲ける、ということを主眼にするにしても、要素を検討して考えて買うのか、考えずに宝くじ的に買うのか、という分け方になるような気がします。②はおっしゃる通りだと思います。一つの物語=大きな物語では語れない、ファンそれぞれが小さな真実(それは単純か複雑化などには関係なく)を求めているということではないでしょうか?それが何なのかが興味をひかれるところです。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2010.01.07 00:14

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