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2009.11.20

ダビスタ的、ウイポ的? 競馬観を生成するものについて

先日行われた菊花賞。その前後に、この日本中で一体どれだけの数の「ダンスインザダーク」という文字列が踊り、またその名が呼ばれたでしょうか? 血を残し、その血を継いだ馬たちの血統表に名を残すことで、初めてその馬の名は、単なる記録を超えて一種の不死性を得ることになるのです/ファンが抱く「種牡馬になれない→残念だね」という心の動きの背景に、「競馬はブラッドスポーツだから」以外で一体どんなバリエーションがあるのか(傍観罪で終身刑/DNAと馬とゲームの規則)

冒頭、引用したのは傍観罪で終身刑さんのブログ。この記事の書き出しでは、「私が関心があるのは『種牡馬になれない→残念だね』と多くのファンが思う背景は何かということ」と拙ブログ「問われるダート競馬の選択 ブルーコンコルド乗馬入り」のコメント欄で私が記した文を契機としたことが示されている。それは多分に拙ブログへの批判的な視点を持たれていることからであったと理解しているが、違った角度から新たなエントリーを書き起こすことで、ある部分の回答になればと思っている。あらかじめ断っておくと、今回もシャープな結論に辿りつくものにはならず、読者の期待に応える自信はない。だが、紆余曲折、様々な方面から反応をもらいながら、自分の糧にさせてもらうことがウェブの面白さだと思っているので、工事中のビル建設現場を覗くつもりで読んでもらえればありがたい。

ブルーコンコルドの乗馬入りに疑問を持った人々を充足させる応答とはいかなるものか。馬主のコンサルタントならば「種牡馬としての価値が付くようなキャリアマネジメントの失敗」で合格点かもしれないが、ファンが求めたのはどんなレースを選択していれば種牡馬入りできたのか、などというビジネスの話ではあるまい。「G1を7勝しても種牡馬入りもできないのはおかしいのではないか」との憤りや嘆息。つまり、優秀な成績を収め、生産界へ戻り、誕生した産駒が競馬場を駆けるサイクルこそ競馬の本質であるとの価値観に反して、ブルーコンコルドが例外とされてしまった(かに見える)ことへのネガティヴな感慨である。それは「競馬の本質は(内国産中心の)ブラッドスポーツ」なのだからであり、今回のエントリーの出発点、「多くのファンが潜在的に内国産的ブラッドスポーツ派ではないか」との仮説を立てる基礎となる。もっとも、古今東西、永久不変の真理など存在しない。錦糸町あたりの馬券オヤジにとっては競馬の本質は賽の目と同じかもしれないし、馬産を持たない香港では金持ちのステータスシンボルが本質かもしれない。そして、ブラッドスポーツ派が主流となってきたのは、私も一部だと自任するが、意外と最近のことではないかという気がするのだ。

以前、私は牝馬がマイル戦で活躍した例としてシンコウラブリイやノースフライトをあげたとき、 ”オールドファン”の郷愁ではないかと指摘されてショックを受けたことがある。だが、私とてTTGやマルゼンスキーの話を聞かされれば、過去の物語と捉えたに違いない。なぜこんなことを持ち出したかと言うと、私たちが当たり前に存在すると思っている見方、価値観、常識というのは、過去のどこかの時点で様々なファクターが要因となって生成されたものだと考えるからだ。どの時代が遠い過去かは、その事象が生成した現場に立ち会っていたかどうか、主観に拠るところが大きい。話を戻そう。内国産的ブラッドスポーツ派のファンが主流を占めるようになったとすれば、それが生成されたのは何時からだろう。この点、「ものかきの繰り言2009」さんの自己分析は鋭い。競馬ゲーム(ウイニングポスト)を入り口に現実の競馬ファンになったことを振り返り、ゲームシステムが乗馬入りを残念と思わせる意識を植え付けたのではないかというのだ。

段々ゲームを進めていくと、自分の作った(買った)馬を種牡馬入りさせる、という副次的な目標が出てくる。あわよくば自分の牧場 で管理して種付けして子供にG1勝たせて、目指せリーディングサイアー! という話になってくる。勿論これはあくまでゲーム的な “ご褒美”の構造でありますが、このいわば「一つのハッピーエンドとしての種牡馬入り」という先入観が、現実の競馬を見るに際して一種の刷り込みとして自分の中にある事は間違いありません。(ものかきの繰り言2009/彼等のゴールはどこにあるのか)

私もウイニングポストを不眠不休でやり続け、2週間、大学を欠席した苦い経験がある。90年代半ばのことだ。大レースを勝てば勝つほど所有馬のパラメーターは上昇し、牧場で強い馬同士を掛け合わせれば、もっと強い馬が産まれてくる。あるいは、ウイニングポストでなくとも、 90年代にファン層を劇的に拡大させたダビスタシリーズも同様の効果があったのではないか。この頃のダビスタには自家製種牡馬のシステムはなかったが、G1を勝ちまくった牝馬を牧場に戻して、さらなる最強馬を生産するという仕組みは、ヴァーチャル空間であれば性別の差は殊更重要なものではない。ゲームでは養老牧場に入りきらなくなった馬は消去されるしかなく、繁殖にあがり、血統図にその名を残していくことこそ、生きながらえる唯一の"ハッピーエンド"であった。基本的なシステムが変わらないまま今も人気を集める競馬ゲームは、相当数のプレイヤーの無意識に「競馬とはかくあって当然」と働きかけてきたのかもしれない。

90年代、リアルな競馬の世界もファンへの新たな刷り込みを始めていた。 1992年、広告業界でも屈指のヒットとなったのは、JRAが打ち出したCMキャンペーン・「あなたと話したい競馬があります」。牧場主の高倉健のもとに新人の裕木奈江がやってきて、ドラマ仕立てで子馬の誕生から旅立ちまでを描き、競馬のロマン性を訴える。高倉健は育成施設に送り出す馬に向かって、「強くなってくるんだぞ」と声をかける。そこには大きなレースを勝って、また帰って来いという生産者の願いが滲む。ファンにしても、台詞は現実離れした夢には聞こえなかったろう。当時、地方から頂点に駆け上がったオグリキャップは18億円のシンジケートが組まれ、スーパークリーク、イナリワンらアイドルホースは馬産地で人気を集めていた。前年にはシンボリルドルフの仔、トウカイテイオーが二冠を制し、皐月賞はミスターシービー産駒とのワンツー。大レースを勝った馬こそ種牡馬として相応しいのであり、己を超える仔を再び競馬場へ送り出すことが競馬の本質である。誰がその真実を疑えようか。

しかし、競馬新聞を電車で広げるのが憚られた時代、競馬に嵌るとは一家離散と同義であった時代、JRAが馬産を含めた「競馬のロマン」を大量広告で喧伝しなかった時代、天皇賞馬より見知らぬ外国馬の方が生産者に重宝された時代、ファンはブルーコンコルドのような馬が種牡馬入りできなかったことに憤りを覚えただろうか。日本の競馬史においては、「内国産不遇の時代」が圧倒的な時間を占めている。引退した皐月賞馬が観光地で馬車を引いて過労死したのは1987年のことだ。 ”オールドファン”からすれば、今年のクラシックのように父内国産馬(この言葉も前時代的だ)が大勢となるとは思いもしなかっただろう。「種牡馬になれない→残念だね」という心の動きの背景に、「競馬はブラッドスポーツだから」という”答え”が的を射ていることは間違いないが、それは私たちが枠組みの生成を目の当たりにし、さらにはリアル、ヴァーチャル両面から刷り込みを受けているからとも言える。真理ではないが、今の時代で最も説得性ある解釈として。

こんなことを書くと、「私はJRAの広告に洗脳されているわけではない。自由に、主体的に物事を考えているのだ」と手厳しい批判を受けそうだ。もちろん、人間の独創性、自律性を信じていないわけではない。そうであったら、私自身、ウェブで表現する意欲が失せるはずだ。それでも、私が何かを思考するとき、まず先に日本語という価値体系に縛られることを認めざるを得ないし、 21世紀の、日本の、競馬ファン、という属性のなかで、限られた情報から取捨選択するばかりで、与えてもらえない情報に思索を向けることはできないこと、言い換えれば標準化、規格化されていることを認めざるを得ないのだ。自分が何ものに動かされているかを考えることは、その行為自体が規格化に吸収されてしまう、自らの影を追いかける影踏みのような終わりない行為であるのかもしれない。しかし、それを受容した上で、物事を規定しようという力に抗い、生成の現場に立ち戻ろうとあがくことが、規格化から逃れる突破口になるのかもとも思う。

たとえ論理と理知を纏った見識であっても、その根底には”競馬こうあるべし”という各自の主観・価値観が横たわっている以上は「 感傷的で情緒的」という場所からは決して離れてはいない。ブルコン問題に関連してダート路線の位置づけを冷静に検証していても、 そういう意味では「情緒的」なのだと思う。(まったり血統派の茶飲み話/感傷を抱くこと、矢を放つこと)

前回の記事、私はブルーコンコルドがダートG1馬であるという属性から、「残念」と思わせる背景の一つとしてダート路線の位置づけを考察した。それが「情緒的」であるとすれば、「”競馬こうあるべし”という各自の主観・価値観」に拘束されている証左であろう。「お前の言説もシステムの効果に過ぎないのだ」と。しかし、それでも今、私はそれぞれ場面で、己の価値観に疑いの眼差しを向け、影を追いながら前に進んでいくより他にないのだ。

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コラム・書評」カテゴリの記事

コメント

 日本で競馬を事業としてつづけるには、馬券を買うファンの存在は不可欠ですが、ファンは馬主ではないし生産者でもありません。
すべての馬主がクラブという状況ならば、センチメンタルなスタリオンの需要もあるでしょう。
しかし、経済動物という十字架から逃れうるサラブレッドなど存在しません。
森調教師も著書でダート競馬は未だ芝競馬を補完するレベルを超えていないと述べています。
JRAでのダート競馬位置づけがブルーコンコルド問題の重要なファクターであることは議論の余地はないと思います。
個人的には、種馬としての将来性のためにダービー本命馬がNHKマイルを使う時代に、ブルーコンコルドに種馬としての経済的価値を見出せる事業者がいない以上、当然の結果だと思います。
ケンタッキーダービー馬すら処分した経験をもつ日本では、乗馬という結果は牡馬にとっては幸運です。
我々日本人は、ケンタッキーダービー馬よりもブルーコンコルドに親近感を感じます。それゆえ、ブルーコンコルドには乗馬としての経済的価値があるわけです。売り上げを支える馬券購入者が、情緒的なあたたかいファンとして存在する意義は大きいと思います。

投稿: ななし改めキングフラダンス | 2009.11.20 11:39

馬車馬の話がハードバージのことならダービー馬ではなく皐月賞馬ですね

投稿: | 2009.11.20 14:52

ブルーコンコルドが乗馬で、アジュディミツオーが種牡馬ってのもなんかなぁ…。

ブルーコンコルドはサンデー入ってないから、悪くないと思ってたけど。

投稿: ぴー | 2009.11.20 20:30

年間維持費が500万として、種付料をいくらに設定
すれば元がとれるのよって話だもんなあ。価値の
ないG1なんていくつ勝っても意味ないし。
一度種牡馬にしちゃうと乗馬にするの大変だから
馬を長生きさせてやるには最善の策ですね。

投稿: ジュサブロー | 2009.11.21 11:08

活躍したひいきの馬には是非幸せに余生を送って欲しいと思うのは人情でしょう。
種牡馬になった、という時はとりあえず大丈夫だな、とほっとします。
乗馬とある時は、う~んほんとに乗馬クラブかな?実は肥沃されて・・・と不安です。実はのところを寸前でファンにひきとられたという話も聞きますよね。
だから、乗馬でも、どこどこの誘導馬にとか、クラブの名前つきだったり、ホーストラストや黒潮牧場にとなれば安心です。
安心ですが、次は、ファンの気持ちとしては、牡と生まれたからには嫁とやらしてやりたい、牝とうまれたからには仔をもたせてやりたい、という気持ちがわいてきます。すごい仔ができる可能性だって0%ではないし。
ブルーコンコルドに対しても、こどもが活躍するはずだから残念というより、上記のようなファンとしての普通の心理からではないでしょうか。
いや、ちがうぞっていわれるかもしれませんが。

投稿: みもざ | 2009.11.21 14:18

>キングフラダンスさま ”競馬”という言わば虚構のなかで物語を紡ぎ、喜怒哀楽を映し出すのがファンなんだと思います。そこにファンはカネを払っているし、業界の側はそうさせている。だけど、外側にまでファンが物語のなかの価値観を持ち出そうとすると、軋轢や矛盾が生じるのだと思います。

>ななしさん その通りです。書いているときは思い出せませんでした。ありがとうございます。

>ぴーさま あっちのほうは父親がダートで成功していますからねぇ。大井で子どもを見たいファンは大勢いるでしょうし。私もそのひとりですが。

>ジュサブロー おっしゃるように、種付けの経験を一度してしまうと、乗馬にするのは難しいそうですね。繁殖と関係なく暮らすのなら、どんな動物でも去勢してあげるのが気持ちも穏やかになっていいようですが。

>みもざさま 子どもを見てみたいというのは、それこそ競馬がブラッドスポーツである以上、自然な感情だと思います。ミラクルアドマイヤだって、天皇賞馬を出すわけですから。サラブレッドは少し遡れば、どの馬でも良血馬ばかりですから、極端な話、すべての馬に可能性があるような気もします。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2009.11.23 00:11

種牡馬入りできなかった理由は、
「需要がない」(商売にならない)からでしょうか。

それを残念と思うのは、
「(競走馬として)好きだったのに、(種牡馬として)評価されないのが残念。だめもとでも種牡馬にしてあげたらいいのに」という感じでしょうか。

みんな、ゲームのように簡単なことだと思っているのでしょうね。種牡馬事業もビジネスですから、情だけでは仕方がない。

ブルーコンコルドの場合は、長く競走馬生活を続けたことでイメージがピークの頃からはダイブ落ちてしまいましたし、フサイチコンコルド産駒ということで生産界での評価もいまいちな血統の出であるということも大きいでしょう。

テイエムオペラオーのように、いくら競走馬として強くても種牡馬としての価値とは本質的に別もの。ある種の人気稼業である種牡馬という道には、競走馬とはまったく別のファクターが必要となるのでしょうね。

投稿: bowie | 2009.11.23 00:41

>>bowieさん
ゲームのように簡単だと思ってる人なんて、ある程度の競馬歴がある人か20代後半以降の人には、さすがにほとんどいないのでは? 競走馬が経済動物であり情だけでは仕方ないことや、種牡馬になったからといって必ずしも幸せではないことも含めても、「残念だ」という部分を含む「なんだかなあ」という感情を持つっていうのは、このエントリーにあるような環境で競馬ファンになったという側面もあるにせよ、まあ「不自然ではない」かと思いますよ。

投稿: 佐野量子力学 | 2009.11.23 19:57

昔はハードバージやサンエイサンキューのようなことがあって、今はブルコンが種牡馬になれなかっただけで大騒ぎ。
昔がアウトロー過ぎたのか今が繊細過ぎるのか、今しか知らない自分には判断できないところです・・・

>bowieさん
自分は残念と思ったし憤った側の人ですが、流石にゲームのようなといった考え方はしていません。
偏った見方をされてるようなので、もう少し広い視線をお持ちになる事をお勧めします。
もちろんわざわざレスするのは内容に憤りを感じたからで、汚い言い方をするなら「そんな事知った上で話してんだよ!」ってなもんです。

投稿: 笹 | 2009.11.24 22:55

 ジャパンカップで日本馬が勝つのが当たり前となり、○外の活躍が減って○父が使われなくなった今のこのご時勢。
 だからこそ、10億円近く稼ぐ内国産馬が種牡馬になれないというのが、どうしても寂しく思える、という気もします。

 それはそれとして、種牡馬にしなかったことでオーナーサイドを責めている類の人は、レースでしか馬を見ない人に多いんじゃないのかなと、これは私のことですが。
 レースしか見ない人からすると、乗馬も屠殺も、馬柱から名前がなくなるという意味では変わらないですからね。
 もちろん長生きしてくれるに越したことはありません。

投稿: | 2009.11.25 22:11

>笹 さま

分かった上で言う、というのは、実質的な責任の発生しないネット上では、分かってないということとじほぼ同義ではないでしょうか。単なる言い訳にようにも聞こえてしまいます。

それはさておき、需要がないから売れない、それだけの単純な事象だと思うのです。

GIは種牡馬選定レースではなく、より馬券を売るためのレースです。GI勝ったからって、種牡馬になれるわけではありませんし、繁殖牝馬が集まるわけでもありません。

競走馬は、引退した瞬間に、その価値を現役時とは全く別のものさしで測られるのです。その価値とは、端的に行って「種牡馬としての需要」以外のナニモノでもありません。

馬券を買う側であるところの「ファン」がたくさんいるということ、或いはその中に種牡馬入りできなかったことに「憤り」を感じるほどに「熱いファン」が含まれているということと、種牡馬の価値とは全く関係がありません。

残念ですが、馬券で儲けるのはJRAですが、種牡馬で儲けるのはオーナーであり、レース体系としてのGIと種牡馬としての価値とを直接的に関連付けるのは、難しいことだと思います。

乱文失礼しました。
ちなみに、サンエイサンキューの時は、さすがに「おいおい」と思った記憶があります。もう、ダイブ古い話になってしまったようですが。

投稿: bowie | 2009.11.28 00:10

あちゃー、自分にだけレスついちゃったって事は自分のレスだけ隙だらけだったかー・・・

>bowieさん
荒れるのは本意ではないので、この件に関して自分は今回のレスで最後にします。
もし反応があったら拝見させていただきますが、それに関する追加での反応はしません。

どうやら自分の言いたい事が上手く伝わっていないようです。
あなたがどのような考え方でも構いません。自分と同じ意見なら嬉しいですし、違う意見なら参考にさせていただきます。
ですが、あなたが最初の冒頭に語った部分は意見でなく、自分がそう思い込んでいるのをそれが正しい事とでも言うような、一方的な決め付けでの書き方だったので、
それはここで書くべき事ではないと感じたので「偏った見方を~」と批判しました。
今回のブルコンの件で悲しんでる人を見てあなたがそう思うのは構いません。ですが、他人様の場所でその内容を発言する際の配慮が欠けていたと思いました。

以下の意見は同意します。
ゲームから入ったクチであるロマン派の自分ですが、物事が一元的ではない以上このような理想と現実のギャップがあるのは当然で、
bowieさんの意見は現実的な話であると思います。
でも確かに事象としては単純ですが、現実派もロマン派も同じ競馬ファンであり、
片方の為に片方がないがしろにされるようでは人離れが進んで衰微を辿るというのも想像に難くありません。(まぁこれはもう始まっている事かもしれませんが)
自分はその双方にとって良い着地点を見出していこうというのが、今回の記事の本題であると思っています。決してブルコンが種牡馬になれなかった原因を探るのが本題ではないはずですw
長文失礼しました。

投稿: 笹 | 2009.11.28 13:11

>bowieさま ご指摘のように現役時と引退後はそれぞれ別の物差しが存在する、馬券を買う側、生産する側の世界が違うからということでしょう。一方、どんなタイプの馬を後世に残していくかということは競走体系に密接に関わってくるわけで、その当たりの長期的展望をファンが発信していくのはアリだと思います。

>笹さま
レスがつくのは嘆くことではなく、喜ぶべきことかと。ポジティブにいきましょう! 私はファンのなかでの折り合いというより、ファンの期待する競馬観と、バックヤードの乖離という気がしています。それはあって当然ですが、色々考えてみると面白い視点が出てくるかもと思っています。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2009.11.29 16:21

話題にのぼらなくなりかけているところで、あえてひとつ付け加えると、こういった事象が重なっていくことで、無意識的にせよ意識的にせよ少しずつファン離れが進み、馬券の売上が下がっていく可能性というのはあるかと思います。まあ、微々たる影響ではあるでしょうが。

投稿: 佐野量子力学 | 2009.12.13 23:29

>佐野量子力学さま ファン離れのお話、拙エントリー「ファンは偉い?偉くない? "競馬見るもの語る者"の現在」が私なりのひとつの答えになるのかなと思います。

投稿: ガトー@馬耳東風 | 2009.12.16 23:02

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