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2008.11.17

新刊『落馬脳挫傷』 石山繁・見えざる障害と闘う日々

高次脳機能障害という病を聞いたことがあるだろうか。つい10年ほど前までは厚生労働省も障害として認めず、医療機関を訪ねても原因は分からないとたらいまわしにされた”見えざる障害”。高次脳とは記憶力、思考力、感情抑制力、言語能力など、人間を人間足らしめている知的な機能をつかさどる部分。交通事故や脳卒中などで高次脳が強い損傷を受けると、健康な身体に戻ったように見えても、日常の出来事が記憶できなくなったり、感情を抑えることができなくて暴力を振るったりと、まるで別人のように変わってしまうことがある。救急医療の発達で救われる命が増えるに伴い、顕在化してきた新しい障害だ。以前、あるきっかけで、私は患者や家族たちと接する機会を得たが、その日々は筆舌に尽くしがたい困難なものばかりだった。

栗東・浜田光正厩舎に所属する石山繁も、高次脳機能障害と闘うひとりだ。サイコーキララの主戦といえば、ピンと来るファンも多いかもしれない。事故が起きたのは2007年2月24日。障害レースに騎乗した石山は、1周目の着地時に落馬して右側頭部を強打。脳挫傷と診断された。病院への搬送中、すでに意識はなくイビキをかく危険な状態だった。生死の境をさまよう日々、「手を握り返して」との呼びかけに応えたのは事故から19日目。だが、高度な治療のおかげで、一命を取り留めてICUから出たものの、落馬前の石山には戻らない。先月、出版された 『落馬脳挫傷 ~破壊された脳との闘いの記録~』 は、石山の妻・衣織さんがリハビリと呼ぶにはあまりに壮絶な日々と家族の絆を綴ったノンフィクション。通常の競馬本とは一線を画す。

そこにいるのは石山繁であって石山繁ではない、別の人物だった。言葉、行動-明らかに事故前のシゲルではない。…シゲルは誰のこともまったく覚えていない。会う人、会う人すべて、カサハラサンとしか呼ばないのだ。…記憶喚起を促すリハビリの一環として、競馬のムチを渡した。すると、クルクルと上手に回すではないか。驚きと同時に、「シゲルの体は自分が騎手であることを覚えていたんだ」と喜びを感じる。その次の瞬間…「みてください、カサハラサン!」…頭と体がまったく別人なのだ。これ以上、どう接していいのかが分からない。

命が助かった喜びが、深い悲しみに転じるのに時間はかからない。高次脳機能障害の大変さは体の機能が回復した後にある。石山も体が動くようになった一方で、怒りを爆発させ手がつけられないほど暴れる。介護を続ける家族の絶望感が深くなっていったのも当然だ。「頑張ればシゲルは治るんですか? 元通りに戻りますか? …すべてをおいて、どっかに逃げたいよ!」優しい性格は一変し、ふたりの幼い子どもにも手を上げる。子どもは何故、叩かれるのか理解できない。「シゲルは謝る。しかし、反省したことを一瞬にして忘れる。いったい、1日にどれくらいどうでもいいことで怒っているのか? …『なんでさっき怒ってたん?』と尋ねても、『・・・?』ということになる」。意外にも衣織さんを支えたのは、その子どもたちだった。怖がって避けるどころか、素直に今の石山を受け入れようとする姿。ただ父親を慕う純粋さが発揮する、力の大きさを感じさせる。

子供たちに助けてもらいながら、犬の散歩に行くトレーニングを始めた。… 次は自動販売機まで行って子供とジュースの買い物。お金を渡す際、計算させるためにわざと1円玉や5円玉を混ぜた。…子供たちは途中で怒られたり、ビックリしたことを私に伝えてくれる。泣きながら帰ってくることもたびたびあった。だけどレイとリサは、次の日も次の日も喜んでついていった。「シゲちゃん、今日は怒らなくて偉かったよ~」

家族の献身的働きとリハビリの甲斐あって、少しずつ石山はかつての自分を取り戻していく。自分の名前を認識できるようになり、他人と意思疎通ができるようにもなった。私が驚かされたのは、栗東トレセンに赴いたときのエピソードだ。事故にあう1、2年前の記憶をすっかり失った石山が、 1頭の馬のことだけは覚えていたという。重賞・小倉サマージャンプをプレゼントしてくれたフミノトキメキだ。騎手としての栄光を石山は忘れていなかったのだ。競馬への強い思い、それが障害を超越する力になってくれればと願う。事故から2年弱過ぎた今も、石山と家族の闘いは続いている。記憶力は充分に回復せず、視力も元には戻っていない。だが、現役騎手として名を連ねる石山には、もう一度、ターフを駆けたいという葛藤もあるように思える。ゆっくりでいい。馬の背にいなくてもいい。いつかファンの前に笑顔を見せてくれる日を楽しみにしよう。

この本は石山の近しい先輩だった藤田伸二が衣織さんを口説いて出版にこぎつけたものだそうだ。男・藤田の功績にも感謝したい。ファンがエキサイティングなレースを楽しむ陰には、「きょうも無事に帰ってきて」と祈る騎手の家族がいる。ちょっとした想像力を働かせれば、冗談でも「落ちろ」などという野次は飛ばせなくなるはずだ。また、高次脳機能障害になる多くの原因は交通事故の脳外傷か、脳出血などによるもの。特殊な職業の人々に限った話ではなく、誰にでも起こりうる障害だということも心に留めて読んでほしい。各地に家族会が誕生してはいるが、外見からは分からない障害のため、誤解や偏見に苦しんでいる患者も多い。この一冊は高次脳機能障害への社会の理解を広める一助にもなるのではないか。

>>華麗なジャンプを再び 石山繁の快復を祈る(2007.3)
>>NPO法人 日本脳外傷友の会(患者団体)

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