10月5日、ロンシャン競馬場のあるブローニュの森は強い風と断続的な雨に見舞われていた。前日の青空と打って変わった悪天候。派手な帽子で着飾ったご婦人たちが少し可愛そうなほどで、どこか波乱を予感させる雰囲気もあった。1レースが始まるのは13時45分だが、 12時すぎから場内は人で溢れていた。すでにパブリックスタンドは立錐の余地もないほど。日本人の姿も多い。正面入り口の右脇に設けられた日本語ブースには、競馬ファンのみならず、普段は馬券を買ったことがない日本人も集まり、スタッフの女性が対応に追われていた。場内に数軒あるグッズを扱うギフトショップも盛況だ。Tシャツ、ジャンバー、双眼鏡、ペンに ストラップなど、様々な凱旋門賞グッズがファンを引き付けていた。場内の大型ヴィジョンには、次々と高級車で到着する要人たちの様子が映し出される。社台の吉田照哉、和子夫妻も登場。凱旋門賞のひとつ前のレースには 、武豊騎乗で持ち馬が出走する予定になっている。
第2レースは向こう正面の直線を走る1000メートル戦、アベイユド・ロンシャン賞。スタートで、1頭、ゲートが開かない。他の馬はあっ という間にゴールまで駆け抜けたというのに。このレース、日本で言うところのカンパイになった。最終レース後にやり直しになるという。もし、凱旋門賞で同じトラブルが起きていたら大変なことだっただろう。とはいえ、このレースも格式あるG1である。そうしたトラブルに目をつぶれば、凱旋門賞当日の雰囲気は非の打ち所がない。歴史の重みを思い起こさせる過去の優勝馬の紹介映像。さらにライブでは、20台以上はあるだろうカメラを使い、検量室、パドック、コースまで騎手、関係者、サラブレッドを追って、巧みに映像を組み合わせる。ドリー、アップ、煽り、ワンカットごとが映画のシーンのようで飽きない。レースを演出するクラシック調の荘厳な音楽も効いている。日本のマンネリ化したファンファーレが子どもじみているようにさえ思えた。この辺りは参考にすべきところではないか。
よくヨーロッパの競馬場は賭博場ではなく、紳士淑女の社交場だと言われる。確かに鈴木淑子のような帽子をかぶった婦人や、スーツにネクタイをした男性も多い。だが、一般スタンドを埋め尽くす、ほとんどのファンはジーパンにジャンパーといった普段着である。目の前のカップルは競馬そっちのけでキスに熱中。そうしたなかでフォーマルな格好をしているほうが、珍しかった。日本人はきちっとしたジャケットを着ている人もいたし、ラフな格好をした人もいたが、どちらも浮いているようなことはなかった。着物の女性がいたのは驚いたが。ディープインパクトの年と違い、日本人の数は知れたものだし、ミーハーなファンも少なかったのだろう。レーシングプログラムの争奪戦など皆無で(結局、余っていた)、パドックに武豊が出てきても、「がんばって」と遠慮気味に声がかかるぐらいだった。
パドックで大声をあげている初老の男性を見つけた。どうやら誰かへ声援を送っている様子だ。注意されるかなと見ていると、逆に関係者からシャンパンを受け取り、歌いながら乾杯。馬が出てくると男性は声を潜めた。阿吽の呼吸である。パドックや通路は、手を伸ばせば馬に届くほどファンとの距離が近い。騎手は気軽にサインに応じているし、声がかかれば答えることもある。考えてみれば、騎手もファンも同じ人間。互いに敬意を払う間柄なら自然なことだ。競馬場の外、ちょっとした買い物だって、店員と客は挨拶を交わして、別れるときはメルシーと言い合う。客だから神様ではない。店も売ってやるのではない。競馬場だって同じ。人間性を疑うような野次もなければ、ファンにうるさいと怒鳴るジッキーもいない。社交場とは、服装の話ばかりではない。ファンも関係者も、大人の振る舞いで競馬を楽しむということではないか。
第6レース、いよいよ凱旋門賞だ。少し傘が開いたパドックに、颯爽とザルカヴァが姿を見せる。ファンの関心は、この類まれな勝ち方をしてきた女傑が、26年ぶりに3歳牝馬として欧州一の称号を手にするかどうかに集まっていた。メイショウサムソンも落ち着いた様子だ。鞍上の武豊も淡々と周回を重ねる。大一番を前にして心を集中させているようだ。各馬、ターフへ向かうと、ファンも一斉にコース前に移動。本馬場入場で1頭ずつ紹介を受ける。去年、万全の体勢を整えながら、馬インフルエンザという災禍に襲われて遠征を断念したサムソン。だが、いくつものハードルを越えて、この舞台に立ったことを思うと、グッとこみあげてくるものがあった。フランスでのサムソンの評価は低いし、チャンスが少ないのも事実だろう。しかし、競馬は何が起きるか分からない。
予定と違って、ザルカヴァの次、最後にゲートへ誘導されたサムソン。準備する間もなく扉が開く。アウェイの厳しさか。タイミングを教えるように係員がザルカヴァの尻をポンと叩いた。両脇から挟まれたサムソンは先行する機会を逸し、思わぬ後方、内側からの競馬を強いられる。ザルカヴァは1馬身ほど斜め前方だ。向こう正面の長い上り、下り。フォルスストレートでも位置どりは変わらない。そして直線。武豊が進路を取ったのは内。激しく馬体をぶつけられる。必死に伸びようとするサムソン。「ユタカ、伸びろ!」声はあげないつもりだったのに、思わず叫んだ。しかし、サムソンの頑張りも半ばまで。中ほどから一気に差し脚を伸ばしてきたのはザルカヴァ。ゴール前では後続を突き放して、歴史的な勝利を飾った。サムソンは10着。これが競馬だ。これが凱旋門賞だ。
ザルカヴァの鞍上でスミヨンが何度もこぶしを突き上げた。全身で喜びを表現するジョッキーと勝ち馬に、観衆から惜しみない拍手が鳴り響いた。後ろを振り返ると、スタンドの全員が立ち上がり、尊敬のまなざしをザルカヴァに向けていた。どの顔も、まるで国を守った英雄を迎えるかのような表情だった。涙を浮かべている人々もいた。表彰式で掲揚されるトリコロールと、演奏されるラ・マルセイエーズ。この時、私は初めて凱旋門賞という価値の高さと、優勝馬の関係者が受ける栄誉の重さを痛感した。この栄光を手にすることは容易ではない。だからこそ、挑んでみたい。過去数十年、何度も壁に跳ね返されながら、異国からチャレンジを続けてきたホースマンの気持ちにも触れた気がした。いつか、あの場所に日の丸が掲げられる時、もう一度、ここに来よう。そう心に誓ってブローニュの森を後にした。
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