チベット競馬祭 民族の心を次の世代へ
チベットと聞いても、すぐに版図を思い浮かべることができる人は多くないだろう。現在、チベットという国は国際法上、存在していないからだ。だが、7世紀初頭にソンツェン・ガムポ王がチベットを統一して王国(吐蕃)を築いてから、ダライ・ラマ法王政権が中国政府の"平和解放"によって実権を失うまで、独自の文化と宗教で隆盛を誇ったチベットは北はモンゴル、南はネパールまで、強い影響力を与え続けてきた。今、そうしたチベット文化圏は中国ではチベット自治区、青海省、四川省など、インドではカシミール州などに分割、支配されている。
チベットは大部分を標高4000メートル以上の草原が占めている。夏は強烈な紫外線を含んだ日光が降り注ぐ一方、冬は氷点下20度を下回る凍てつく世界となる。厳しくも豊かな生命を育む大地で、人々はヤクを放牧し、大麦を栽培しながら、営みを続けてきた。高山植物が花を咲かせる6月から8月、あちらこちらの草原では祭りが開かれる。普段、広範囲に住む人々が年に一度、一堂に会して、数日間に渡って民族舞踊や音楽を披露する。祭りは昔から大切な出会いの場でもあった。その中で最も喝采を浴びるのが競馬だ。男たちは村の名誉を賭けて、馬に跨り勝負を決する。
私がチベット族の競馬祭を観たのは雲南省・香格里拉(シャングリラ)。標高3276メートル、チベット東部に位置する。シャングリラとは映画化された小説『失われた地平線』(ジェームス・ヒルトン)の舞台となったチベットの理想郷のこと。長らくデチェンと呼ばれた地域だったが、観光客を呼び込もうと自分たちの土地こそシャングリラだと宣言して、県名まで変更してしまった。旧暦の端午の節句、ここで競馬祭が開かれる。元々は吐蕃時代に騎兵隊の閲兵式として行われたものだという。政府は97年に競馬場を完成させ、観光の目玉にしようと考えた。
祭り当日、競馬場には遠く離れた地域に住むチベット族が、色とりどりの衣装を着飾って集まってきた。その数、数千人。芝生のスタンドは埋め尽くされた。共産党書記の開会宣言とともに、祭りが始まった。チベット女性たちの鮮やかな歌と舞踊が馬場で繰り広げられる。行進時に両手に掲げているのは『カタ』という薄いスカーフ状のシルクの布。祝いや別れの席で相手の幸せを祈って肩にかける神聖なものだ。近代化のなか、祭りの形は変わっていっても、民族の伝統を守ろうという人々の思いは強い。
そして、いよいよ競馬だ。馬はポニーのように小柄。大の男が乗ると可哀想にすら見えるが、タフさはサラブレッドを凌ぐようで力強く駆けていく。トラックを走って着順を争う普通の競馬のほか、流鏑馬など技を競うものなど数種類ある。最も誉れ高いとされるのが『カタ拾い』。直線走路の左右、地面に置かれたカタを騎手が大きく身を乗り出して拾っていく。自らバランスを崩しながら、片手で手綱を操って真っ直ぐに走らせるのは相当な技術が要される。息が合わなければ馬が寄れて、一枚も拾えない。優勝はタイムと拾えた枚数で決まる。
カタ拾いの優勝者は隣町から参加した青年だった。落馬の危険も顧みず、見事な手綱さばきで左右90度に身を傾けて多くのカタを拾い上げた。青年の勇気と技に人々から賞賛の拍手が巻き起こった。今、中国政府の西部大開発はチベットの姿を大きく変えようとしてる。各地へ中国人の移住が推進され、伝統的な街並みは中国風の近代的ビルになりつつある。だが、チベットの人々は、じっと民族の思いと信仰心を胸に秘めて、したたかに生き抜いていこうとしていた。きっと彼らは万難を排して、次の世代へと文化を受け継いでいくことだろう。
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